学会報第44号

(2021年9月15日発行)

この4年間を振り返って

日本法哲学会理事長 森村 進(一橋大学)

 私は2017年から2期4年間日本法哲学会の理事長を務めてきましたが、この11月に開かれる学術大会での新理事選挙に伴ってその仕事を終えます。その間の法哲学会で何よりも重大な出来事は、新型コロナウィルス禍のため昨年度の学術大会統一テーマが延期され、本年度も対面での開催ができずオンラインでの開催をやむなくされたということです。実際私は一昨年の立命館大学における学術大会以来、ほとんどの会員とZoom上でさえ会う機会がないことを大変残念に思っています。また同じ理由から、この期間には法哲学会の運営方針について根本的な見直しを行うことも叶いませんでした。その任務は今後の理事会に委ねるしかありません。しかしそのような状況にもかかわらず日本法哲学会が学問的な活動を行い『法哲学年報』の刊行を続けられるのも、有能な事務局と熱心な役員の方々の尽力、そして会員の皆さんの協力があったからこそです。
 どうか今度の「法と感情」を統一テーマとする学術大会には、対面はかなわぬものながらオンライン機能を十分に利用して参加されるよう望みます。
 さて今年2021年はジョン・ロールズ(1921―2002)の生誕100周年であると同時に、主著『正義論』刊行50周年にもあたります。そこでこの機会に学会報では井上達夫と亀本洋の二人の元理事長から文章を寄稿していただきました。私はこのお二人と違ってロールズの著作を深く研究したわけではないので、ここでは日本の法哲学界がロールズ研究において果たした役割を簡単に振り返ってみたいと思います。
 今の日本ではロールズの思想は高校の社会科の教科書にも詳しく紹介されているくらいで常識の一部になっていますが、私の知る限り、日本でロールズの仕事に最初に関心を示したのは政治学や倫理学の学界ではなく法哲学の世界でした。『正義論』の刊行後すぐに『法哲学年報』の1972年度版に田中成明「ジョン・ロールズの『公正としての正義』論」が、また1974年度版にも同じ著者の「正義・自由・平等――ジョン・ロールズの『公正としての正義』論再説」が発表され、1979年には同じ田中成明会員の編訳によってロールズの初期の論文8編がまとめて邦訳され、『公正としての正義』(木鐸社)として公刊されました。ロールズにそれほど関心を持っていなかったように思われる故・碧海純一会員もすでに1973年の『新版法哲学概論 全訂第1版』の中で「現代の基本的法価値論の諸問題に関する、最もすぐれた概説書」としてA Theory of Justiceをあげています(317ページ注83)。その後1980年代以降も日本のロールズに関する重要な著書や論文の多くは法哲学者によるものでした。
 このことは日本の法哲学者が伝統的な法哲学観にこだわることなく、政治哲学や倫理学の領域にわたる広い関心を持っていたという事実の現われでしょう。その傾向が今後も変わることがないように望みたいものです。
 そしてここで指摘したいと思うのは、翻訳が研究と文化一般の発展に果たす役割の大きさです。私は以前この学会報37号で初めて理事長として書いた巻頭言の中で、外国語文献の邦訳が研究の進歩と普及に資するということを書きましたが(他にも拙著『法哲学はこんなに面白い』(信山社、2020年)15-16ページ)、ロールズの著作についてもこの事情が当てはまります。むろんロールズの研究者や熱心な読者ならば邦訳がなくても『正義論』の分厚い原書を読むでしょう。しかしそれほどでもない大部分の人々は、邦訳がなければ決して接しないのです。1979年に出た『正義論』の最初の邦訳は、一部ではなぜか酷評する人もいますが、日本の知的関心のある読者層に(前期)ロールズ正義論の全体像を理解させる上で大きな役割を果たしたと評価できます。(2010年に刊行された新訳は立派な訳業ですが、その刊行までかなりの間訳書が入手困難だったのは残念なことでした。)一方1993年の『政治的リベラリズム』に代表されると言われる後期ロールズについては、英語圏に比べると日本では渡辺幹雄会員の書物のような例外はあっても研究が乏しいようですが、その大きな原因の一つは、需要があるにもかかわらず『政治的リベラリズム』と『ジョン・ロールズ論文全集』がいまだに邦訳されていないという事情にあるでしょう。
 ハイエクやドゥオーキンやサンスティーンについて日本で研究が盛んなのも、彼らの著作が邦訳に恵まれているのが助けになっているはずです。むろん邦訳があれば必ず研究が進むとか、邦訳がなければ研究が乏しいといったことは言えませんが、両者の間には無視できない因果関係があるに違いありません。
 今述べたことは英語以外の外国語の著作について一層大きな程度で妥当するでしょう。もしギリシア語が読めなければプラトンやアリストテレスの哲学について語れないとか、ドイツ語の原文にあたらなければカントやケルゼンを論じられないなどということになったら、哲学の進歩は決定的に阻害されてしまいます。翻訳は人々にそのような鎖国状態を脱する移動の自由を与えてくれます。
 法哲学会員の方々におかれては学術的な著作の翻訳を大いに利用し、その価値を認識することを、さらに能力と意欲がある人は自分でも翻訳によって広い読書人層に恩恵を施すことを期待します。