学会報第24号

(2011年9月12日発行)

この小さきもの、汝の名は世界―世界正義論の困難性と不可避性

日本法哲学会理事長 井上達夫(東京大学)

「何と小さな世界!」

 知人や縁ある人と、思わぬところ、例えば異国の街で偶然遭遇したようなとき、英語ではよく“What a small world!”という感嘆表現を使用します。一つ、嘘のような本当の話をしましょう。
 1986年から1988年まで私がハーヴァード大学哲学科に客員研究員として滞在したとき、ボストン郊外のベルモントに住んでいましたが、その近隣の人で、親しくお付き合いした私より年長の米国婦人がいます。私が帰国した翌年、彼女が来日して、当時千葉大学に在職していた私と家族が住む船橋の小さな官舎に、一ヶ月ほど、ホームステイしました。その間に一度、彼女は単身で京都旅行をしましたが、京都の地下鉄の駅でまごまごしていると、そばにいた長身の日本人紳士が寄ってきて、“May I help you?”と親切に声をかけてくれたと言います。彼女が「友人で千葉大学に勤めている若い法哲学者の自宅に滞在しているが、この機会を利用して京都見物に来た」と自己紹介したところ、その人が「それは井上達夫ではないか」と言ったそうです。
 なんと、その紳士は我が法哲学会元理事長、当時京都大学教授の田中成明先生でした。彼女がその人の名はTanakaだったというので、私が田中先生に確認させていただいたところ、まさにその通りでした。この奇しき縁を私が語ると、彼女は“What a small world!”という言葉を連発していました。

縮小する世界の現実

 グローバル化の進展で、国境を越えた人の移動、世界経済の一体化、国内政治への国際社会の影響力等が日々増強されるなか、「何と小さな世界!」という誇張的修辞がもはや誇張ではなくなり、世界は本当に小さくなりました。
 本会報前号の「大震災が私たちに問うもの」と題した巻頭言の末尾で、日本の政府・社会・知的世界が現下の危機にいかに対処するかを、世界が注目していると書きましたが、世界中の人々が日本を心配してくれるのは、日本への友情による部分もあるにせよ、それ以上に、「他人事ではない」からです。GDPで中国に最近抜かれたとはいえ世界第三位の規模をもつ日本経済が破綻すると、世界経済全体に甚大なダメージを与えます。政治的にも、福島原発事故は原発を抱える欧米先進諸国の国民世論に直ちに影響し、各国はエネルギー政策の見直しを迫られ、ドイツのメルケル政権は早急な脱原発へ政策転換をしました。
 インターネットの発展も越境的コミュニケーションを容易にし、情報空間における世界の人々の距離を著しく縮小させています。グローバルな情報交換技術の高度化・多様化は経済的・文化的な次元だけでなく、政治的次元においても国境の壁を破る相互影響関係を緊密化し、チュニジア、エジプト、そしてリビアと、盤石に見えた中東の長期独裁体制が次々と打倒される連鎖的な体制変革運動の起爆剤にすらなりました。
 世界はいま、どこかに石を投げ入れると、たちまち波紋が水面一杯に広がる小さな池のようなものになった、そう言っても過言ではないかもしれません。
 国境の内外の事象を連結させるグローバル化の進展は、人類を「運命共同体」と化して、その連帯結束を高めると期待したいところですが、このような楽観は残念ながら許されません。地球が狭くなれば、資源争奪や、リスクとコストの転嫁合戦など、各国のエゴの衝突がかえって激しくなる危険も高まります。自分たちが統制できない外的諸力によって自分たちの運命が左右されることへの不満や不安が、それに対する心理的代償としての自己中心的・排外的ナショナリズムに諸国民を傾斜させる危険も高まっています。
 尖閣諸島(釣魚島等)をめぐる日・中・台の対立、竹島(独島)をめぐる日韓対立、南沙諸島(Spratly Islands)をめぐる中国・東南アジア諸国間の対立、北方領土(クリル列島)をめぐる日露対立など、国民的自尊と資源エゴが癒着したナショナリズムの紛争発火剤が、アジア地域には特に多くばら撒かれています。統合が進むヨーロッパにおいても、域外との関係では、移民(特にイスラム系)排斥を唱える排外的ナショナリズム政党が各国において無視できない勢力をもっているだけでなく、域内関係においても、財政規律が放漫で財政が破綻した、あるいは破綻に瀕する加盟国と、その尻拭いをさせられる加盟国との対立が深まっています。
 福島原発事故はエネルギー問題の再考を迫っていますが、ここでも各国のエゴが跋扈する危険性があります。ドイツはいち早く原発撤退を打ち出しましたが、これに対しては、「ドイツにこの政策転換ができるのは、いざ困ったときは、原発重点化方針を維持しているフランスやチェコから電力を買えるという安全網があるからで、原発のリスクを他国に転嫁しながら、その便益を保持しようとする不公正な政策だ」という批判もあります。ドイツだけでなく、先進諸国では脱原発を志向する世論が全般に高まっていますが、風力・太陽光など代替エネルギーが安定的かつ十分供給できる技術・インフラが確立するまでにはまだ何十年か、相当の年月がかかる以上、それまでは、脱原発を急ぐなら火力発電への依存度を相当高めなければなりません。これは周知のように地球温暖化問題を一層深刻化させます。中国やインドなど、温暖化ガス排出量を急増させている巨大な新興経済発展国には排出量削減を要求しながら、自らは排出量削減努力を後退させるなら、これは先進国エゴと言われてもしかたないでしょう。「中国やインドには火力発電依存度を減らすために原発を推進してもらう代わりに、我々は脱原発でいく」というのが本音だとしたら、これはまさに二重基準の不公正を意味します。
 この種の「本音」が実際に窺われる例を一つ追加しましょう。レア・アースの世界市場で供給をほとんど独占していた中国が輸出量を削減したとき、先進諸国は中国を批判しました。日本も尖閣諸島問題への報復だと批判しました。しかし、レア・アースの精錬過程では放射性物質が副産物として生まれ、その安全処理には高いコストがかかります。中国がレア・アース供給を独占できたのは、放射性廃棄物処理コストをあまりかけずに価格を安くできたからです。米国をはじめ先進諸国でもレア・アース資源がないわけではありませんが、放射性廃棄物処理コストをかけずに安くレア・アースを入手するために、中国から輸入していたのです。放射性廃棄物の安全処理をおろそかにして(つまり、自国民を危険に曝して)安価なレア・アースを売りまくって稼いだ中国の問題もありますが、それを知りながら、放射性廃棄物のリスクを中国に押し付け、自らはレア・アースの低廉化という便益だけを享受してきた先進諸国のエゴにも大きな問題があります。

世界正義とナショナリズム―第10回神戸レクチャーの意義

 この7月前半に、国際法哲学社会哲学学会連合日本支部(IVR Japan)主催、日本法哲学会後援で、第10回神戸レクチャー(京都)およびそれに付随する連続セミナー(東京、大阪、名古屋、福岡)を、オックスフォード大学のデイヴィッド・ミラー(David Miller)教授を講師として招聘して開きました。ミラー教授はナショナリズムの哲学的再編と擁護を試みる業績を1990年代から精力的に発表し、さらに2007年には「世界正義(Global Justice)」への配慮とナショナリズムとの適切なバランスのとり方を模索する著書National Responsibility and Global Justice (Oxford U. P.)を刊行し、注目されています。 今回の神戸レクチャーと連続セミナーの共通テーマは、まさに世界正義とナショナリズムの関係の問題であり、彼のこの著書の邦訳(富沢克・他訳『国際正義とは何か――グローバル化とネーションとしての責任』風行社、2011年)も、今回の講演・セミナーに合わせて刊行されました。グローバル化の進展が諸国の相互依存・相互影響を強める一方で、国益を優先させるナショナリズムの再強化ももたらしているという上述の状況を踏まえるなら、今回の神戸レクチャー事業は、現代世界の焦眉の課題に真正面から取り組む重要な意義をもつと言えます。京都講演と各地のセミナーではいずれも、活発な討議が行われました。
 私も東京セミナーでコメンテーターとして参加し、ミラー教授と議論いたしました。その議論の中身はいずれIVR機関誌Archiv für Rechts- und Sozialphilosophieの別冊特集号に掲載されるのでここでは立ち入りません。世界正義とナショナリズムとの緊張関係にいかに対処するかという問題への彼の解答には、私はかなり批判的ですが、彼の提起する問題そのものはきわめて重要で、批判者にも真剣に応答する責務を課すものであることだけは強調したいと思います。彼の議論は主として、世界分配正義に関わる先進諸国の途上国貧窮民救済責務と国民的自己責任原理との関係に向けられていますが、上述したような資源問題・エネルギー問題・地球環境問題をめぐる諸国の利害対立、しかも貧窮途上国と先進諸国の利害対立だけでなく、先進諸国間や、先進諸国と新興発展諸国との間の対立をも視野に入れて、ナショナリズムの暴発を制御する公正な世界秩序形成原理としての世界正義はいかにして可能かという問題をさらに探究することが、今後、法哲学の課題としても重要性を高め続けるでしょう。
 国家エゴ・国民エゴが跋扈し、諸国が公正な世界秩序とは何かをそれぞれ自己に都合のよいように定義しようと争っている現実の下で、この課題は困難をきわめます。しかし、それは人類にとっても法哲学にとっても不可避の課題です。この課題が放棄されるなら、ナショナリズムとナショナリズムとの「仁義なき闘争」か、それらの間の転変する勢力関係に左右される戦略的妥協としての「暫定協定(modus vivendi)」か、強国のナショナリズムの「覇権化」かという、救いなきトゥリレンマに追いやられるしかありません。
 法哲学会はこの課題を真剣に受け止めており、今般の神戸レクチャー事業に続いて、来年度の学術大会でも、Global Justiceを統一テーマにして全体シンポジウムを企画準備しております。今年度学術大会の統一テーマは、統治の哲学としての功利主義で、国内的な統治原理に一応は焦点が置かれますが、ピーター・シンガー、ロバート・グッディンのような功利主義者が世界正義を積極的に論じていることが示すように、誰の幸・不幸(快苦あるいは選好の充足・挫折)であれ、外国人のであれ同国人のであれ、その強度が等しければ全体幸福計算に等しく算入する功利主義には、世界正義への志向性が内包されており、今年度学術大会においても、議論が世界正義にも及ぶことを期待しております。