学会報第48号

(2023年9月1日発行)

人が集まること、対面で話し合うこと

日本法哲学会理事長 中山竜一(大阪大学)

 ご存じの通り、新型コロナウイルス禍のために、学術大会の対面開催は2019年度大会を最後に長らく見送りとなっていましたが、昨年度(2022年度)の大会で、ようやく対面開催に踏み切ることとなりました。大変な時期に会場を提供してくださり、感染防止をはじめ数々のご配慮をいただいた中央大学の石山文彦会員、山田八千子会員には、この場を借りて深くお礼を申し上げます。そして、学会設立75周年を記念する今年度の学術大会では、4年ぶりに懇親会も開催するという方向で準備が進んでいます。そこで今回は、このこととも関連させて、人が集まること、そして対面で話し合うことをめぐって、雑感を書き記しておきたいと思います。
 私たち研究者仲間にとって、コロナ禍への対応から生じた特筆すべき変化の一つが、Zoom やWebex等の新たな情報技術を用いて行われる、オンライン会議の爆発的普及だったかもしれません。決して安くはない交通費を使って遠くまで足を運ばなくても、シンポジウムや研究会などの学術行事や、各種の会議に参加できるようになったことは、私たち研究者のライフスタイルを一変させたと言えます。一定のオンライン環境さえ整っていれば、移動に要する金銭的・時間的コストに頭を悩ませることなく、国内外の各種行事へと参加し、発言したり議論を闘わせたりすることが可能となったからです。言うまでもなく、議論討議は、いわば「法」や「哲学」の中核となる実践(いとなみ)ですが、この点だけに限定すれば、コロナ禍への対応として始まったオンライン会議の定着は、むしろ好意的に捉えられるものだと考えます。実際、こうした新たな技術を利用しなければ、2020年度と2021年度の学術大会の実施は不可能だったことでしょう。また、私がこれまでに参加した各種のシンポジウム、研究会、会議等に限っての話ではありますが、オンライン開催となってからの方が、以前より出席者数が増えたという事実もあります。
 ただ、よく言われることではありますが、オンラインでの話し合いでは上手く伝わらないといったものも確かに存在します。議論討議では、理性的な情報・意味・主張の交換を超えるもの、あるいはパソコンやスマートフォンのマイクやカメラでは捕捉が難しい何かも、実は重要であるのかもしれません。それは、R. バルトが「声の肌理(きめ)」と呼んだものかもしれませんし、現象学派であれば「身体性」、存在論の哲学者なら、端的にその人の「現前」と呼ぶものかもしれません。
 しかし、ここで私が述べたいのは、そこまで高尚な事柄ではありません。オンライン授業を担当された皆さんは、おそらく次のような体験をお持ちかと思います。対面での交流を通じてすでに人間関係ができている学生諸君の間では、ゼミ等でのオンラインでの話し合いも比較的スムーズに運ぶ一方、初めての顔合わせがオンライン授業でのモニター画面を介してだった学生諸君間ではなかなか議論が弾まない(あるいは、それ以前に誰も発言しない)といった体験です。以上は、学生諸君の話ですが、同様のことは研究者同士、とりわけ若い研究者の皆さんについても当てはまるのではないでしょうか。先ほど少しだけ触れた話ではありませんが、実際に会って話し合うこと、面と向かって話し合うということには、哲学の主題ともなるような、それだけ重要な何かがやはりあるように思われます。
 ここで関連して思い出されるのは、本学会の理事長も経験された三島淑臣先生がかつて日本法哲学会50周年記念誌『法哲学会のあゆみ』に書き残された、「学会開催の際は、できれば、若手会員(四〇才以下位)だけのための二次会場を(単に偶発的にではなく)定例的に設営して、会員相互の親睦を深める機会を作り出して欲しい」という言葉です。年長の会員なら顔見知りも少なくないだろうが、若い会員にとっては、学問関心が近い研究者がいても相互に話し合う機会をなかなか持てず、高い旅費を支払って学術大会に出席しても、むなしさのようなものが残りがちである。それゆえ、若い会員たちが互いに気兼ねなく胸襟を開いて対話できるような場を準備してはどうか、といった提案です。Sober Curiousといった新語も耳にする時代ですので、必ずしも「飲み会」である必要はありませんが、この75周年大会で復活する懇親会、そして、その後の交流が、とりわけ若い皆さんにとって、実際に同じ場所に集まり、互いに面と向かい率直に話し合う貴重な機会となることを、心から願っています。