井上達夫

日本法哲学会理事長・東京大学大学院法学政治学研究科教授

1954年生まれ。東京大学法学部卒業。東京大学法学部助手、千葉大学法経学部助教授、東京大学法学部助教授を経て現職。1986年に『共生の作法』でサントリー学芸賞、2005年に『法という企て』で和辻哲郎文化賞を受賞。日本学術会議会員。
(2009年11月当時)

法哲学のこれから、日本法哲学会のこれから

日本法哲学会理事長 井上達夫 (東京大学)

1 法哲学を囲む時代状況

「立法者の三つの訂正の語句で、[法学の]全文庫が反古となる。」

キルヒマン(Julius Hermann von Kirchmann)が1847年に「学問としての法学の無価値性」という爆弾講演においてなしたこの有名な一文は、もちろん誇張ですが、「法教義学(Rechtsdogmatik)」としての法学について、重要な真理をデフォルメした形で強意表現していることは否めません。

法の形成・発展の指針となる基本原理を探究せずに、条文の訓詁学に終始しているような「実用法学」は、学問性が疑わしいだけでなく、ひとたび現行法が抜本的に変われば、「実用性」すら失うのです。このような「実用法学」を超えた原理性・学問性をもつ多くの優れた実定法学者の研究が存在することは、急いで付け加えなければなりませんが。

現在の日本では、キルヒマンのこの言に思いを馳せさせる状況が現出しています。「立法の爆発」です。

資本主義経済の支柱の一つである会社法が大改正され、ピラミッドのように不動とされた刑事法の分野でも、裁判員制度・被害者参加制度など刑事訴訟手続の大改正や刑の早期化・重罰化の方向での実体刑事法の変革が驚くべき速度で遂行されました。行政をチェックし是正する市民の法的武器を従来より強化する方向での行政事件訴訟法の改正もなされました。さらに「百年に一度」とも言われる民法の大改正に向けての動きも盛り上がりつつあります。

今般実現した政権交代は、今後も攻守を変えて起こり、日本政治の常態になると思われますが、このような政治の動態化は当然、立法の動態化を今後も推進する要因となります。政治と立法の動態化が憲法改正にまで発展する可能性も小さくありません。

かかる立法の活性化は法律家に、その原理的・批判的な思考力・構想力を問う厳しい試練を課します。学習能力が低下してきた年配の弁護士の中には、会社法の大改正で、いままで専門にしていた会社法を離れ、いままた進む民法大改正が実現した折には仕事が出来なくなるのではないかと恐れている人もいる、そんな話も聞きます。

立法の活性化は実務法曹や実定法学者だけでなく、法哲学者にもその力量を問うテストを課しています。

立法の活性化は望ましい方向性と危険な方向性とを混在させる両価性を有していますが、法に対する原理的・批判的考察を自己の任務として掲げてきた法哲学者が、現在の日本の立法実践に対して、根源的・巨視的な視点から、その危険な側面を批判するとともに、立法の「正当性」に関わる「あるべき立法政策」と、立法の「正統性」を保障する「あるべき立法システム」の指針を示す建設的な提言が本当にできるのか、社会から期待とともに厳しい視線が向けられていると言っていいでしょう。

もちろん法哲学の世界には、法を自生的秩序とみなし立法による社会改革に批判的な立場も存在しますが、かかる法理論もまた、現在の立法実践の問題性を適示し、改善の指針を示す責任を負っています。自生的秩序論の代表的論客であるハイエクも行政議会と立法議会の二院制に基づく立法システム改革論を提唱したことが、ここで想起されるべきでしょう。

立法の活性化はいまこそ「法哲学の出番」であるという意味で、「千載一遇」ではないとしても一つの「好機」を法哲学に提供しています。しかし、出番に来て何もできないことを露呈してしまうなら、法概念論や正義論などの法哲学者の言説は実践的レレヴァンスを否認され、法哲学という学問の存在理由に対する懐疑を深めさせることになりかねません。好機と危機は裏腹です。

「ミネルヴァの梟は宵闇に飛ぶ」などと言って取り澄ましていると、飛んで見せようとした時には、誰も見ていないか、「何をいまさら」と黙殺されるでしょう。黙殺されない大きな飛び方をするには、暁のうちから羽ばたく準備、助走ならぬ助翔をしなければなりません。同じヘーゲルを引き合いに出すなら、「ここがロドスだ、ここで跳べ!」という彼の言こそ、いま想起するにふさわしいでしょう。

現在の日本の立法の活性化の背景には国内問題だけでなく、グローバルな政治経済システムの構造変動が日本に自己変容を迫っているという事情もあります。グローバル化の諸問題は、国内法中心の思考が基本であった法哲学の自己変容をも迫っています。

主権概念の脱構築・再構築をめぐる諸問題、人権保障の国際化やグローバル・ジャスティス、地球環境問題などが孕む哲学的・実践的諸問題、国内法制に対する「グローバル・スタンダード」の圧力が孕む諸問題、権力主体のグローバルな集中と拡散が権力の民主的答責性保障・法の支配にもたらす課題など、新たな問題領域の探究が法哲学にも要請されています。

2 知のメガ・コンペティションへ

現代社会・現代世界の現実が突きつける以上のような挑戦に日本の法哲学が的確に応答する能力を練磨するには、欧米の流行思想の輸入・紹介で事足れりとする「法哲学学」(あるいは長尾龍一教授の言う「トランク法哲学」)から脱却し、自ら法を哲学する「法哲学」へ成熟するという、かねてより語られてきた課題をいまこそ実行する必要があります。

この課題がかねてより語られながら十分実行されてこなかった一つの大きな理由は、現代の欧米の法哲学や政治哲学・社会哲学などの隣接分野に魅力的で大きなパラダイムが種々あったからです。しかし、このようなパラダイムも、グローバル化等の新たな諸問題に対するその解明力を疑問に付されつつあります。

それだけでなく、かかるパラダイムの構築・発展に指導的な役割を果たしてきた知的巨人たちが死去したり高齢化したりする一方で、彼らに匹敵する強力なパラダイム形成力をもった新世代の理論家・思想家が欧米においてもまだ育っていないという現状があります。経済的比喩の使用が許されるなら、「巨大企業」によって寡占化されてきた「知のマーケット」が、いまや「中小企業・ベンチャー」などが乱立する分散化された競争市場へと変容しつつあると言えるでしょう。

かかる状況において、日本の法哲学研究者も、「泡沫海外企業の輸入代理店」としてジリ貧化するのを避けるには、「新たな知の開発競争」に生産者サイドから参加することが必要不可欠です。脱中心化した知の市場は、同時に、欧米の境界を越えたグローバルな「知のメガ・コンペティション」の場でもあります。

幸い、知のメガ・コンペティションに日本の法哲学研究者が参加する傾向は近年少しずつ現れてきています。

隔年で開催される法哲学・社会哲学国際学会連合(IVR)の世界大会では、ここ10年ほど、毎回、日本の法哲学者が全体会議で報告し、さらに特別部会を主宰し部会報告で活躍する日本法哲学会会員の数も増加しています。IVR以外の国際学会・国際シンポジウムに積極的に参加し報告する日本の法哲学研究者も若干見られます。IVRの機関誌『法哲学社会哲学紀要(ARSP)』や法哲学関連分野の国際雑誌・国際共同論文集への日本の法哲学者・法哲学会会員の寄稿も増えてきています。国際学会組織活動においても、IVR理事として日本人研究者のIVRでの発表機会の拡充に尽力されてきた森際康友教授がニール・マコーミック理事長急逝の後を受け、理事長代行に選任されました。

このような日本の国際的プレゼンスの高まりの背景には、1987年にIVR世界大会をアジアではじめて神戸で開催し、その遺産を継承して「神戸レクチャー」を持続的に開催し国際的評価の確立した学術事業へと発展させてきた日本法哲学会・IVR日本支部の組織的活動、特に、碧海純一教授・矢崎光圀教授(故人)・佐藤節子教授などIVR元理事や日本法哲学会の歴代理事長・元役員・元会員(特にIVR神戸世界大会組織委員会事務局長を務められた長尾龍一教授)、さらにIVR日本支部運営委員会歴代メンバーを含む多くの関係者のこの活動への御尽力があることは言うまでもありません。

このような蓄積を基礎にして、グローバルな知の開発競争に一層積極的に参加されることを日本の法哲学研究者・法哲学会会員の皆様に呼びかけるとともに、それを促進し支援する方途を役員や会員の皆さまとともに模索していきたいと思います。

3 内発的論争へ

知のメガ・コンペティションで生き残り、成長発展する能力を日本の法哲学が陶冶するには、一つ重要な前提条件があります。それは、日本の法哲学・法理論の「内なる競争」を活性化させることです。

「戦後」と呼ばれた一時期、ノモス論争・法解釈論争など「国産論争」が活性化しましたが、その後は法哲学者同士の間、法哲学者と実定法学・政治学など関連分野の研究者の間で、活発な論争が闘わされることはあまり見られなくなりました。

しかし、日本の研究者がそれぞれ蛸壺にこもり、真剣な相互批判によって問題意識と議論を深化させる営みを回避するなら、日本の知的世界からの主体的な発信として国際的に通用する問題提起を行うことは期待できません。

再び経済とのアナロジーを使わせていただくなら、日本の自動車産業が卓越した国際競争力を獲得したのは、各自動車メーカーに得意分野で棲み分ける「仕切られた競争」戦略をとらせようとした旧通産省の行政指導を自動車業界が拒否し、まず国内で熾烈な競争を展開したことによります。このことは、知の国際競争力を活性化させる上でも重要な教訓を含んでいます。

日本法哲学会でも、田中成明元理事長と笹倉秀夫元理事長の下で学術大会全体会議の統一テーマ企画を当該大会三年前から企画委員会が準備し役員会のチェックを何度も受けながら練り上げる方式が形成・確立され、視点を異にする報告者・コメンテーターの討議がすれ違いに終わらず、かみ合った生産的論争になるよう工夫が払われてきました。

また、竹下賢元理事長の下で、学術大会における全体会議と別個の複数のワークショップ併行開催が検討準備され、さらに嶋津格前理事長の下で、『法哲学年報』の休眠してきた書評欄を「論争する法哲学」として復活再編する計画が検討準備され、それぞれ最近、実現を見ました。

これらの改革は、いずれも「内なる論争」を活性化させるための日本法哲学会の組織的な試みです。このような改革を継承発展させて、日本の法哲学研究者と関連分野の研究者をともに巻き込む活発な内発的論争の場として日本法哲学会を成熟させるために、役員・会員の皆さまとともに努力を続けたいと思います。

また、法哲学に関心をもっておられる学会外の皆さまにも、かかる論争への参加を広く呼びかけさせていただきます。

(2009年11月27日)
(2009年11月30日レイアウト変更)