2011年度学術大会(終了)
功利主義ルネッサンス:
統治の哲学として

日 程:2011年11月12日(土)・13日(日)
場 所:一橋大学 (東京都国立市)

統一テーマ「功利主義ルネッサンスー統治の哲学として」について

大会委員長 若松良樹(成城大学)

1 背景とねらい

 1970年代にロールズの『正義論』の出版を契機として正義論は復権したが、そこでは「功利主義は直観に反する結論を正当化しかねない」といった批判が横行していた。そのような中、日本法哲学会は時流に逆らうかのように1987年に「功利主義と法理論」を統一テーマとして掲げて学術大会を開催した。
 20年以上経過した現在、再び功利主義を取り上げる理由を説明するために、1987年の年報を繙いてみよう。そこでの議論は古いタイプの功利主義に対する批判の正当性を前提とした上で,新しい形態の功利主義に可能性を求めようとする報告が中心であったように思われる。そこでの功利主義の公平、かつ慎重な取扱いを見ていると、功利主義に対して死亡宣告を下すために、あらゆる可能性を探求しているような印象を受ける。
 皮肉なことに、法哲学会における検死手続きの直後、1990年代に入ると、D.パーフィットなどの議論をきっかけとして、功利主義批判の根拠となっていた我々の直観よりも、功利主義のもつ反直観性の方に哲学的、形而上学的根拠が存在する可能性が示され、英米哲学界における功利主義への関心は復権した。英米における功利主義の復権と呼応して、わが国においても生命倫理などの文脈において、倫理学者が中心となって、功利主義の研究が盛んになりつつある。かくして、 わが国における功利主義は応用倫理学として復権した。
 功利主義のもつポテンシャルは、別の文脈においても存在しうるだろう。すなわち、個人の倫理としてではなく統治の哲学としての可能性である。ベンサム自身も統治の理論として功利主義を構築したことを考えるならば、この文脈で功利主義が復権するか否かは功利主義にとって死活的な重要性を有しているように思われる。本企画においては、統治の文脈における功利主義のポテンシャルの検討を目的とする。
 以上のような目的を達成するために、報告を二つの部分に分けた。第一部は、具体的な文脈における統治の必要性と、功利主義による回答の切れ味を堪能することを目指している。功利主義の回答は切れ味が鋭すぎて時としてグロテスクでさえありうるが、それだけに功利主義的な統治に対して我々は何らかの態度決定を迫られるであろう。
 第二部においては、統治における法の役割、という法哲学会にとってはより基本的、総論的な問題について議論することとしたい。一見すると、功利主義的統治にとって法というメディアを用いなくてはならない必然性はないように思われる。より効率的な手段が存在するのであれば、法に拘泥する必要はないのではないか。この問いに答えることが第二部の課題である。

2 統治の必要性と功利主義

 現代社会をどのように特徴づけるかは論者によって異なりうるが、外部性、不確実性などが存在するために、個人の選択の問題に小分けすることができず、何らかの仕方での統治が必要となる状況であるという点に関しては、一定程度の合意は存在するように思われる。
 新しい統治の必要性を最も明確に示しているのは、児玉聡氏(東京大学)が扱う公衆衛生の分野であろう。児玉報告は、自律的に選択する個人を基点に据えた理論では扱いが困難である公衆衛生の問題を手がかりに、新しい仕方での統治を考えてみる必要性と、その選択肢としての功利主義の魅力の一端を伝えてくれるであろう。
 ただし、公衆衛生における功利主義の切れ味は鋭すぎて、グロテスクなものさえ感じさせる。児玉はこのような印象を与える源泉をチャドウィックに求め、これとは別の可能性が功利主義には残されていることを、ミルに即して明らかにしようとする。
 児玉報告にコメントを行うのは、生命倫理の分野において独自の研究を展開しつつある鈴木慎太郎会員(愛知学院大学)である。
 統治のパフォーマンスを評価するに際しては、ある時点における問題解決能力だけでなく、持続可能性も考慮に入れなければならないだろう。時間という軸を入れて考える場合、将来の統治の主体となりうる子供たちの教育という問題は避けては通れない。功利主義的な統治はどのようにして教育を行い、功利主義的な社会はいかにして持続可能なのであろうか。小松佳代子氏(東京藝術大学)は教育に焦点を当てることによって、統治の動学的側面に挑戦する。
 小松によるこの試みはベンサムに対する権威主義的なイメージを覆すことも目指している。これに対してコメントをするのが、フーコーと教育問題に造詣が深い関良徳会員(信州大学)である。

3 功利主義における法と制度

 統治の理論といえども、個人の倫理とまったく無関係ではありえず、両者の関係は従来から功利主義にとって悩ましい問題であった。制度に従わない人が存在する不完全遵守状況においては、制度の要求に従わない方が制度の目的を実現できる可能性がある。そのような場合に、制度の要求に従うべきか、それとも制度の目的の要求に従うべきか。それともこの問いの立て方自体に問題があるのか。
 安藤馨会員(神戸大学)は、個人の義務の正当化根拠と制度の正当化根拠との関係を分節化し、その座標軸に功利主義を位置づけることにより、その特徴を描き出す。この意味において、安藤報告は、統治の哲学としての功利主義の可能性と意義を考えるためのよい導入となるであろう。
 新しい統治技術の開発は、功利主義と法=命令説との連関を緩める。法は命令以外の多様な形態をとりうるし、功利主義も統治のために必要なあらゆる手段を利用することが可能であり、命令にのみ依存する必要はない。このことは、功利主義的統治における法の位置づけという新たな問題を惹起する。この大問題に取り組む大屋雄裕会員(名古屋大学)の報告は、法哲学会で功利主義を取り上げる意義について考えるよいきっかけをも与えてくれるであろう。
 安藤報告と大屋報告にコメントを行うのは法と正義との密接な関連を強調している井上達夫会員(東京大学)である。

11月12日(大会第1日)
[午前の部]
〈個別テーマ報告〉
  《A分科会》伊藤克彦・松島裕一・稲田恭明
  《B分科会》栗田佳泰・山崎友也・松原光宏
〈特別講演〉
 佐藤節子(青山学院大学名誉教授)
 「研究生活60年を振り返って
  ―規範言語の概念分析、機能分析を経て法の人間学へ―」

[午後の部]
〈ワークショップ〉
  《Aワークショップ》
   「ヘーゲルと現代社会―法・国家・市民社会―」
        (開催責任者・篠原敏雄(国士舘大学))
   「法とノルムの哲学―ミシェル・フーコーから法理論へ」
        (開催責任者・関良徳(信州大学))
  《Bワークショップ》
   「家族という経験と法―親密圏からのまなざし、親密圏へのまなざしー」
        (開催責任者・那須耕介(摂南大学))
   「日韓における刑事裁判への国民参加―日本の裁判員制度との比較を通して」
        (開催責任者・岡克彦(県立福岡女子大学))
〈総会〉
[懇親会]

11月13日(大会第2日)
〈統一テーマ報告〉
 若松良樹(成城大学)
   統一テーマ「功利主義ルネッサンス―統治の哲学として」について
 児玉聡(東京大学)
   「功利主義と公衆衛生」
 鈴木慎太郎(愛知学院大学)
   「児玉報告へのコメント」
 小松佳代子(東京藝術大学)
   「功利主義と教育―J・ベンサムの統治論における教育の位置づけを中心として―」
 関良徳(信州大学)
   「小松報告へのコメント」
 安藤馨(神戸大学)
   「統治理論としての功利主義」
 大屋雄裕(名古屋大学)
   「功利主義と法:統治手段の相互関係」
 井上達夫(東京大学)
   「安藤報告・大屋報告へのコメント」
シンポジウム「功利主義ルネッサンス――統治の哲学として」
   司会 若松良樹(成城大学)・鳥澤円(関東学院大学)

日本法哲学会会員および関係者各位

「学会報告要旨に関するお詫びと訂正」

 2011年度学術大会案内の中で掲載されている分科会報告要旨(伊藤克彦「D.Wigginsのニーズの概念に関する一考察」)の中に、報告内容に対して誤解を与えかねない表現がありました。ホームページを利用して、謹んでお詫びさせていただくとともに、下記URLにて訂正した報告要旨を用意いたしました。よろしくご確認のほど、お願い致します。

報告要旨の訂正文(PDFファイル)のダウンロードURL:
https://files.me.com/katsu909/dmmqii

2011年9月15日
伊藤 克彦(日本学術振興会特別研究員PD)

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